ケータイ小説、あした恋するキス講座

■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじまさわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…

■作者プロフィール
志羽竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学経済学部卒東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など

※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。

-前回まで-
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじまさわ)。4年ぶりに恋に落ちた相手は、同じ会社の小暮昌弘。だが昌弘は、五和の後輩である紀美子とつき合っていた。昌弘と紀美子が自分を馬鹿にしていたと知った五和は、「あした恋するキス講座」という恋愛マニュアルを知り、二人を見返すことを決意。マニュアルに従い、香月（かづき）という師匠を得て容姿を磨き、異性とのコミュニケーション技術を習得していく五和に、周囲の男性の態度は見る見る変化。ふたたび接近してきた昌弘に、「つき合ってよ」と言わせることにも成功した。キラキス、キラセックスと、昌弘への恋愛統治を進める五和。そのためにレストラン・カノウの予約をドタキャンしてしまったが、加納は怒らないどころか五和の忙しさを気づかう。二人は親密さを増していくが……。

☆49

「サワさん、今日はまたずいぶんと気合いが入ってますね」

アキレス腱を伸ばしながら加納さんは言った。私はビタミンウォーターをボトルからごくごくと一気に飲み、プハァと大きく息をついた。

「今日は気合いを入れてるんです」

両手を空に突きだし、加納さん、と合図して彼に背中を伸ばしてもらう。肉体的な接触も思考の占領の手段として有効ｂｙ新海英之。たとえわずかな時間の接触であっても後でどう効いてくるかわからない。チャンスがあればひとつ残らず実行してやる。

交代して加納さんの背中を伸ばしてから、自分たちの手首足首をほぐす。あいにく空は曇り空だった。夜には天気が崩れて雨になるらしく、雲はわずかな隙間さえ作らずにいまから入念に大雨の準備をしている。

「決勝の料理のテーマって決まりました？」

「実はそれがまだ。念願の決勝なのに、頭がまっ白になっちゃって」

「走って汗かけばいいアイディアも思いつきますよ」

そうだといいけど、と彼は自信なさそうに首を振った。

「もう、そんな顔しないで。鷹の爪でも煎じて飲んだらすこしはピリッとするんじゃないですか？」

「や、やめてください、火傷しますよ」

「じゃあ今は仕事のこと忘れて、加納さんも気合い入れて！」

渡したビタミンウォーターのボトルを恥ずかしそうに受けとって彼は口をつける。私はその場で股上げをしながら、これが私にとっての決勝なのだと気を引き締める。

ライバルカードは諸刃の剣。

いまこそこれまで培ってきた実行力を発揮して、慎重に、かつ大胆に、難攻不落の加納城に切り込むのだ。

「夜から雨が降るんだって」

ジョギングをはじめるとすぐに私は作戦を展開した。

「でも、明日は晴れるらしいですよ」

この会話は朝からずっとシミュレートしてた。どうやって加納さんにライバルの存在を知らせるか。わざとらしくなく、自然な会話の流れの中で、私にアプローチしている人が他にもいるってことを彼に気づかせなければならない。

「私、大雨って大好きなんです」

「なんでですか？」

「その後はいつもびっくりするくらい気持ちよく晴れるから」

「確かに。じゃあ、明日が楽しみですね。」

「明日かぁ」

「五和（さわ）さん、明日もよければ、その、一緒に走ります？」

きた。私はここぞとばかりに声を低くする。

「明日もご一緒したいんだけど……ちょっと、会わなきゃいけない人がいて」

「あ、予定ありましたか。残念」

笑顔で受け答える加納さん。ほんとうに残念と思ってくれてるの、と問いただしたくなる。そこで会話が途切れてしまって、加納さんはもう走ることに集中しているみたいだった。ちょっと、普通相手が誰だか気になるんじゃないの？　と私は勝手にいらいらしてくる。

「ほんとうは加納さんと一緒に走りたいんだけど」

これでどうだ。

「じゃあ、また来週末にでも走りましょう。晴れるといいなぁ」

だめじゃん。

「明日は映画の約束なんですけどね。私もあまり乗り気じゃない人とだし、断っちゃおうかなぁ」

これならどうだ。

「え、なに見に行かれるんですか？　映画かぁ。最近行ってないなぁ」

だれかー、助けてー。この人、ぜんぜん気づいてないじゃん！　私はかなり大胆になっていたつもりだったけれど、加納さんにはまったく響かない。どれだけ鈍感なら気が済むんだ。寝ないで考えてきたシミュレーションも、加納さん相手にはまったく意味がない。いいかげん苛ついてきた私は、我慢ならなくなってライバルカードを加納さんの額に擦りつけた。

「実はいま、お付き合いして欲しいって言われてる人がいて」

それにはなにも答えない。聞こえなかったんだろうか、ともういちど言おうしたときに加納さんはようやく大声で「え！？」と聞き返した。

「そ、そうなんですか」

慌てる加納さんを見て、嬉しいというよりも胸がすっとした。

「そうなんです」

「どんな方、なんですか」

「会社の人です、私より十歳くらい年上の。でもね……」

「年上がだめなんですか」

ようやく話が噛み合ってきて私の機嫌も良くなってくる。そうそう、はじめからこういう話がしたかったんです私。

「年齢は関係ないんですけど。前に憧れてた人なんです」

そうなんですか、と一瞬落ち込んだ様子で彼はうなずく。

「憧れてた人から告白されるなんて、一番いいじゃないですか」

「そうじゃないの。前は確かに憧れてたんだけど、でも、ちょっと陰でひどいことされて。加納さんみたいなまっすぐな人からは想像もできないようなひどいこと」

「……そうなんですか」

「そう、それで悔しくなって、綺麗になって見返してやろうと思って、ここ最近頑張ってたの」

お芝居のつもりで悲しげに言ったのだけれど、言っているうちにあの時の昌弘さんに対する怒りがこみ上げてきた。

「どうりで。印象はずいぶん変わりましたよ」

そう加納さんに言われて、でしょでしょでしょ、と同意したい気分が盛り上がってくるけれど、そこはしっかり押さえた。

「彼からはもの凄く傷つけられたから、ぜったいにふり向かせようと思ったんです。ダイエットして、お化粧やヘアメイク勉強して、ほかにももっともっと色んなこと練習して仕返ししてやろうと思ったの。そうしたら、自分でも驚いちゃうくらい全部が上手く行ったの。がっかりするくらい、あっさり、彼が私を見る目を変えてね。信じられる？　彼、三ヶ月前までは私のこと馬鹿にしてたのよ？」

「……それで、告白されたんですか」

そう、と私は自信満々にうなずく。私は知らないうちに走るペースをあげていた。息がすこし切れている。でも疲れはまったく感じない。調子づいていたのだ。

私がうなずいてから、加納さんは黙りこくってしまった。まっすぐ前を見て、両腕を規則的に振りつづけている。なにを考えているんだろう、それともペースが上がってしゃべるどころではなくなったのかな。と私が思っていた矢先に、彼は速度を落とし歩きはじめ、やがてそこで立ち止まってしまった。どこか痛めたのだろうか。私も彼と一緒にペースを落として走るのをやめる。

どうしました、と訊けなかった。

加納さんの視線が私を射抜いていた。悲しんでいるのか悔しがっているのかわからないような視線だった。正解はどちらでもなかった。

「五和さん、それってわざと彼の気を惹こうとしたってことですか」

「え……」

しゃべりすぎてた。そのことにようやく気づいた。

「彼のことをもう好きでもないのに？　仕返しするためだけに？」

怒っていた。加納さんは冷静に、怒っていた。私はなにも答えられなかった。

「彼の気持ちを傷つけるのを承知だったってことですか」

「だって、だって私もそれだけのことは彼にされたから」

「だからなにをしてもいいって？」

「……」

「彼、きっと傷つきますよ。五和さんがそんなことをする人じゃないって思ってるだろうから」