■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…
■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など
※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。
☆43
この前は悪かったな、と傑から内線がかかってきたのは香月と会った翌日だった。声のトーンは前にも増して深刻味を帯びていた。とりあえず久しぶりに飲みにでも行くか、と私が言っても気のない返事でおうとうなずいただけだった。
私の祝勝会というよりは傑の残念会というムードではじまったその夜、傑はいままで見たことがないくらいの急ピッチで酒を飲んだ。行きつけの居酒屋のお兄ちゃんが「何かあったんですか」と小声で私に心配してくるくらいだった。
「別に隠してたわけじゃねぇって。ちょっと悪戯心はあったけどな。それになんか恥ずかしいだろ、自分の妹が美人だとか女のプロだとかって持ちあげんの」
香月が妹だとなぜ言わなかったと文句を言っても、傑は悪びれもせずにそう答えただけだった。傑の気持ちもわからないでもない。それに私に二人のことを客とホステス、もしくは恋人同士だと勘違いさせておけば、傑の家庭の話や仕事の話を香月の前ではしなくなる。それも傑にとっては都合がよかったはずだ。でも香月にまで「オレが兄貴だとは言うな」と強制しないところがヌケている、というか傑の人のいいところなのだろう。
「そんなことより、五和のことだ、よかったなお前、オレは嬉しいよ」
香月のことといい祐理さんのことといい、こいつは自分のことになるとなにも話さないくせに人のことばかり心配する。キープしておいた伊佐美のボトルを飲み干して、傑の酔いはますます回ってきた。
「よく頑張った、おれは知ってるぞ、遥(はるか)からもきいてたぞ、一生懸命やってるって」
うんうん、と腕を組みながら傑は満足げにうなずく。
「で、小暮さんとつき合うの?」
「つき合うわけないでしょ」
「え、じゃあ、ここまで頑張ったのに小暮さんフるわけ?」
「まだフッてない」
「じゃあ加納さんだ」
「加納さんは……まだわかんない。とにかく昌弘さんを料理してからね。あした恋するキス講座、まだ全部試した訳じゃないし。もっと引っ張って引きずり回してやるんだ。スゴイでしょ」
傑は口に運ぼうとしていた焼き鳥の手を止める。充血した酔眼で私を睨んだ。
「そこまではしなくていいだろ。わざわざ傷つけるようなもんじゃねーか」
「それくらいしたって文句言われないわよ。あのマニュアルを完璧に身につけたいの」
「お前な、あんまりマニュアルマニュアル言うなよな。好きじゃねーよ、オレそういうの。なんかそのニイミなんとかの話を聞いてると、人の気持ちをオモチャみたいに考えてるじゃねーか、くだんねぇ」
そのおかげで昌弘さんに仕返しできてるっていうのに、なにを言ってるんだ。私はムッとしてロックの芋焼酎をぐいと飲み込み語気を荒げた。
「香月さんだってあの本は良くできてるって言ってたもん」
「遥はプロだろ。それを承知で客も金払ってるんだ、騙し合いじゃねぇ。プロ意識が強いからこそオレだって応援してるしよ。でも五和はそーじゃねぇ、楽しむためにやってる。楽しむために、人を傷つけようとしてるぞ」
傑の語調も強くなってくる。私はこれ以上この話題に触れたくないと思った。傑がグラスに注いだ焼酎をすぐに私は半分のみ干す。
「自分は奥さんとの話はどうだったのよ」
「どうもこうもねぇよ」
彼は途端に顔色を曇らせる。しばらく口をつぐんでいたけれど「たまには自分の話もしなさいよ」と私が文句を言うとしぶしぶ彼は口を開いた。
「遥が会いに行ったらしい。いずれ遥から聞くだろうから先に言っておくけどよ。祐理、不倫してたんだよ」
私はなにも言わずにただ腕を組んだ。
「あいつはスゴイよ、コワイよ。エヌキミだ、キャバ嬢だーっつって口だけで女を追い回してる俺とは違う。なにも言わずに、ほんとに他の男に抱かれやがる。オレが気づいたのは、不倫がはじまって一年くらいだよ。情けないだろ、一年も気がつかなかったんだぜ? 仕事の付き合いや後輩たちとは飲みに行く時間あるくせに、どんだけ祐理のことほったらかしてたかって話だよ」
「相手の人とは……」
思わず聞いてしまった。傑が眉間に皺を寄せて瞼(まぶた)を閉じる。傑のナイーブな部分を素手で突いてしまった自分がすこし恥ずかしくなった。
「もう切れてるらしいがな。ただよりによって不倫相手が、しょっちゅうオレが飲みに連れて行ってた部活の後輩だったから参っちまった」
腕を組んでいた自分の指に力が入るのがわかった。傑が唇を噛む。後輩からも慕われる面倒見のいい傑のことだ、よりによってその後輩と自分の妻が一緒に自分を裏切っていたと知ったとしたら。そのときの傑の痛みを思うとなんの言葉も出てこない。傑が私の顔を見るとパッと表情を崩して「お前が深刻になるな」と笑った。
「ならもうひとつ驚かせてやるよ」
「もう驚かないわよ」
「その男とお前、会ったことあるぜ」
驚いた。口を開けたままの私を見て傑が「ほらな」と鼻を鳴らす。
「オレが後輩に頼んだ合コンあったろ?」
「待って、それって」
「オレが急に行けなくなったから、事情をなにも知らなかった他の後輩が、そいつを呼んだんだよ」
私は愕然とする。喉が痛いほど渇いてグラスを飲み干す。
「昔は一番可愛がってた奴なんだ。トシっていう奴いただろ? いやー、ひっくり返ったよ。参ったよ。オレが家を出たのはトシが相手だって知ったからだ。祐理のことは愛してたけど、ひとりになりたかったんだ、わかるだろ? わからないか? ちょうどそのころあの会社のことも重なっちまってさ。もー、なにがなんだかわかんねぇ、なんか全部がどうでも良くなっちゃってさ。ぜーんぶ、やる気なくなっちまった」
彼は天井を見上げる。私の手は震えてた。この一年、彼の事情も知らずに傑に言いたい放題言ってきた自分を思いかえした。
「それでもさぁ、人間って不思議だよな、まだ祐理のこと好きなんだよ」
「……祐理さんはなんだって?」
「自分と一緒にいるとオレがダメになるから離婚したいって。まぁ、たしかにこの一年、笑えるくらいダメ人間だったからな。なにも言い返せなかったよ」
私をふり向いて傑は力なく微笑んだ。
「どうだ、こういう場合どうすればいいかなんて、お前の恋愛マニュアルには書いてないだろ」
壁にもたれ目を閉じた。すぐにすやすやと傑は寝息をたてはじめた。