■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…
■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など
※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。
☆42
「サワのお母さんって迫力あるな」
ネイルサロンの待合室で香月が腕を組んで唸った。
「ありすぎて困ります。いまでも現役ど真ん中なんだもん」
「でも言ってることは間違ってない。人の気持ちを上手に扱うには、人の痛みには鈍くなきゃできないからな。ま、それが私がはじめにいってたモテる覚悟って奴だよ」
「まぁ、私は父親似だから、そういうのが上手にできないんじゃないかって心配してたみたいだけど」
いやもう充分上手くやってるでしょ、と香月は笑った。
「それにしてもすごく楽しそうじゃん。なんかいーことあった?」
「わかります? 実はレストラン貸し切りで食事しちゃって」
「うわ、それスゴイじゃん! いつの間にこの子!」
香月は私の顔を両手ではさみ、耳をつまんで大興奮してる。耳がもげる、と騒ぐ私を見て彼女は大笑いする。出来の悪い生徒が、自分なりに頑張っている姿が嬉しいのだろう。私は恥ずかしくてすこしくすぐったい。待合室に呼びに来たネイリストが首を傾げて私たちを見た。
奥の部屋に案内されて隣の席に腰をかけると、私たちはネイリストに片手を預ける。
「そこまでいい女に仕上げたつもりはないんだけど。そのデート超金かかってるね」
「というかそこのシェフの加納さんが友達で、定休日にお店を開けてくれたんです」
「カノウって、あのフランス料理の? へぇ、いい男つかまえてるじゃんサワ」
「そんなんじゃありませんって」
「あ、カノウのことが好きなんだ?」
「な、なんですか急に」
「顔見てればわかるよ。なんだそういうことかぁ。嬉しそうだからてっきり例のマサヒロとなんかあったのかと思った」
「あ、そういえば彼からは告白されました」
なんだって、と香月が身を起こしカルジェルを施していたネイリストが小さな悲鳴を上げた。
「ちょっと、なんでそんな大事なこと先に言わねーんだよ、すごいじゃん」
「どれもこれも香月さんのおかげです」
「マサヒロについては超冷静だねサワ」
「お陰さまで。なんか詰め将棋でもやってる気分。詰め恋愛、あとメール四手、みたいな」
「ていうか、なんかいつのまにかプロみたいな」
「恋愛棋士と呼んでください」
聞き耳を立てているギャル風のネイリストが私たちの会話の内容に目を白黒させている。
「なんかいいな順調で。こっちは進展なしだよ」
「よかったぁ、思いとどまったんですね傑(すぐる)の奥さんと会うの」
「いや、それは行ってきた」
「よかったよかった」
と惰性でうなずいていたけれど、香月の言葉をもういちどよく確認して私は「えーっ!」と店内に響き渡る大声を出した。なんだって? 祐理さんと会ってきた? しかもそんなあっさりと。愛人が本妻の元へ押しかけるなんてもっとどろどろとして陰惨なものなんじゃないのか。香月師匠の精神世界は私の想像を遥かに超えている。
「……で、祐理さんは会ってくれたんですか」
「いや普通に、どもー、みたいな感じで家に上げてくれたけど」
傑の嫁も嫁だ。なんなんだそのライトな感じは。よっぽど肝が据わってる女性なんだろう。
「ちゃんと話できたんですか」
「まぁ、お茶出されて世間話して、まフツーだよ」
「フツーすぎます」
「で世間話が盛り上がりすぎてこれじゃいけないと思ってさ、ちょっとそのとき時間もなかったし、なんで別居したのかいきなり訊いたわけ」
「なんですかその時間がなかったって。というか、別居した理由を香月さん本人が訊いたんですか? ほんとに? ひどいなそれ」
「なにがひどいんだよ、私だって関係者なんだ、別にいいだろ」
「でも愛人本人がそんなこと直接……」
と私が言ったときには香月の眉毛はつり上がり、燃えるような目で私を睨みつけていた。
「いまなんつった?」
「いや、あの、ごめんなさい。でもさすがに香月さんが奥さんにそんなこと言うのは……」
「私が愛人だぁ? あのさ、今どき愛人なんて言葉使わないんだよ。配偶者以外に恋人がいるときは、普通に彼女とか彼氏とか言うっつーの。ま、それくらい世間じゃ不倫してんのなんてあたりまえだし、あたりまえすぎて不倫って言葉も死語同然だろ」
そうなのか。恋愛マーケットの最先端を走っている香月師匠が言うのだからそうなのかもしれない。とにかく私は謝って「すいません、じゃ、香月さんが彼女だとしても、やっぱり奥さんに直接言うのは……」と言いかけたところで、また香月が身を起こす。もうネイリストたちは私たちの会話に集中していてその手を止めていた。
「ごめんなさい、でも私はやっぱりそれだけは香月さんが間違ってると思うから、どうしても言わなくちゃと……」
「だからさ、おいサワよく聞けよ。なんで私がスグルの彼女になるんだよ。もしそうだったら義姉さんのところに乗り込む前にだらしないスグルのケツ蹴飛ばしてるよ」
え、と口を開けたまま私は絶句する。いまなんて言った?
「ちょっと待って、それってスグルと香月さんって……えーっ!」
「サワ、もう面白がるタイミング逃してるっつの」
香月はほとほと呆れたようにため息をついた。
香月は祐理さんとも年が近かったし、傑と彼女が交際しているときから仲が良かったらしい。だけどこの二三年は傑も祐理さんを家族の前にあまり連れてこなくなり、もし来たとしてもわずかな時間だけで二人してすぐ帰ってしまっていたという。
「ここんとこあんまりうまくいってないとは知ってたけどさ。水くさいジャン、昔はしょっちゅう一緒に遊んでたんだよ? スグルもこういうときだけ兄貴づらしてカッコ悪いトコ見せようとしないでさ」
「ていうかちょっとまだ兄妹だって消化できないんでもう一回驚いていいですか」
「その話はもういいよ。とにかくスグル、親にも私にもなんにも言わないまま別居してたわけじゃん? で義姉さんに理由を聞いたらさ、いきなり泣き出しちゃって」
「……それってやっぱり傑の浮気が?」
「まさか。スグルの浮気なんてあり得ないよ。アイツそういうところだけは筋通ってるし。デートだの彼女だの言ってたとしても口先だけだっつーの」
「じゃあなんだったんでしょうね、原因」
「男だよ。義姉さん一年以上、他に男を作ってたんだってさ」