■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…
■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など
※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。
☆39
カノウの定休日なのに加納さんは私のために予約を取ってくれた。どういうことなのかよくわからなくてすぐに加納さんに電話を入れたのだけれど、携帯にもお店にも連絡がつかなかった。
どっちにしろ傑は来れないのでキャンセルしに謝りに行こうと決めた私は、予約の一時間ほど前にカノウの店にやって来た。営業日であれば看板の出ている場所に、やはり看板がない。ビルの二階を覗いてみると照明が落ちていた。間違いない、今日は定休日なのだ。
もしかしたら加納さん、曜日を聞き間違えたのかも。
そういうことか、と私は螺旋状の階段を上りながら納得する。また明日にでも連絡してみよう。なんとなしに二階のお店の入り口に立ってみると、ホールの照明は落ちていて、人の気配もまるでなかった。それなのにホールの奥のキッチンから明かりが漏れている。私は試しにドアに手を掛ける。
鍵はかかっていなかった。
店内にはすでに空調が入っているのかホールは温かかった。かたかた、とキッチンの方から音がしていて、近づくほど音も光もつよくなる。キッチンのドア窓からなかを覗き込む。広い厨房の中心で、加納さんはドアに背中を向けながらキッチンの用意をしていた。色の褪せたデニムに、淡い水草色のシャツをラフに着ていた。
よく考えれば加納さんの私服姿を見たのはそれが最初だった。陽に焼けた横顔と坊主頭、ラフなデニムとシャツの加納さんは、サーフィン後にシャワーを浴びたばかりのハワイの男の子のようだった。
「あのぉ」
と恐る恐る声を掛けると、びくぅっと体を震わせて加納さんはふり返った。
「あー、ビックリした」
目を丸くしている彼を見て私は吹き出して笑ってしまった。
「五和さんでしたか、あれ、時間まちがえましたっけ僕」
「いや私の方なんです、早く着いちゃってすいません。ていうか、今日、定休日だってこと忘れていて。それなのにお店……」
まだ準備をはじめたばかりのキッチンを見まわすと、加納さんは恥ずかしそうに笑って、いいんですよと頭をかいた。
「五和さんのお祝いなんだし、この店を選んでくれたことが嬉しくて」
「……それがほんとうに言いにくいんですけど、連れが、連れっていっても傑なんですけど、来れなくなってしまって」
え、と加納さんは動きを固め、私は恐縮して頭を下げる。
「ほんとうにごめんなさい! せっかくお店まで開けてもらって、なんと言っていいのやら」
そうですか、と加納さんは腕を組んで息をつく。あぁ、とんでもない迷惑を掛けてしまった。そもそもちょっと考えれば今日はカノウが定休日なことくらいわかったはずだ、すくなくともそれを調べてから加納さんに電話するだろう。きっと昌弘さんのことがあって自分でも思う以上に浮かれていたんだ。私は自分の幼さに恥ずかしくて申し訳なくて身が縮む思いがする。
「もう食材も用意しちゃってるんですよね」
「それはちゃんとお支払いします。すいません、こんなに迷惑を掛けてしまって」
「いや、ぜんぜんそれはいいんです。でも、お店も開けちゃってるし」
「せっかくのお休みまで無駄にさせちゃって……」
「ねぇ五和さん」
加納さんは組んでいた腕を解いて私をふり返った。
「もうどこかで食べていらっしゃいました?」
え、と今度は私が訊きかえした。
「いや、まだですけど……」
「せっかく食材も用意したんで、もしよかったら食べていかれません?」
「え、いや、でも……」
「お祝いなんだし、もう僕、作る気満々なんです。ご無理にとは言わないけど、もし別の予定が入っていなかったら」
加納さんは歯を見せて笑った。
カノウを貸し切りで。加納さんを貸し切りで。
そんなの、ほかにどんな予定が入っていたって答えは決まってる。
「そんな贅沢、いいんですか」
いいんです、と彼は楽しげに言ってシャツの腕をまくった。