■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…
■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など
※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。
☆40
夢のような時間だった。加納さんが料理を作っているあいだ、私はテーブルの準備をし、それが終わるとキッチンに入って加納さんの料理を手伝った。コースとしてすこしずつ料理を出したいと加納さんは主張したけど、それだと一緒に食べれないと私が不満を言って、ある程度まとめて料理を用意することになった。
前のお店はオープンキッチン(というか、キッチンを別室にできないくらいの小さなお店)だったので、彼の料理姿自体は以前にも見たことがある。でも、こんなにも近くで料理中の加納さんの表情を見たことはない。それはジョギングしているときやお店のホールに挨拶しに来るときとも違う表情だった。彼が食材を見つめているときは、なにも話しかけられなかった。話しかけたとしても、聞こえないんじゃないだろうか。彼の周囲を透明なカプセルが包んでいるようで、隣に立っている私とは決定的に違う世界の内側でフライパンを握っていた。
彼が手を動かすたびに、あたらしい香りが生まれていく。オリーブオイル、ガーリック、バターに醤油の香りも立つ。マグロと野菜のミルフィーユ、キジの煮込み、オマール海老のロティ、次々と皿が彩られていく様はまるで手品を見ているようだった。
誰もいない店内で、私たちは加納さんが用意してくれたジャクソンをあける。シャンパンの栓の抜ける大きな音が二人だけに届く。私は香月と一緒に買ったワンピースで、彼は洗いざらしのシャツのままで。料理の味は言うまでもなく絶品だった。彼と一緒に食事をしている時間は私の人生の中でももっとも贅沢な時間のひとつになった。
食後は食器を下げるとカウンターに席を移り、加納さんはディケムのハーフボトルの栓を抜いた。私の幸福が貴腐ワインの一滴にまで染みいっているような素敵な味がした。
「ほんとうに今夜はありがとうございました。キャンセルしてくれた傑にもお礼を言わなくちゃ」
「僕からもお礼を言っておいてください」
加納さんが笑う、お酒に強くないのか陽に焼けた顔はまっ赤に染まっていた。私は加納さんと一緒にグラスを傾けていること自体に可笑しくなってしまう、彼の食事は食べてきたけれど、彼と一緒に食事をしたこともお酒を飲んだこともなかったのだ。
「ほんとうに贅沢でした。こんなことになるんだったら、もっと綺麗な格好でくればよかった」
「もう充分ですよ。緊張してしまう」
「汗まみれのスッピンを知ってるのに?」
はは、と加納さんは短く笑って首を振る。
「あちらのほうが五和さんっぽくて、僕は好きですけど」
彼はグラスに口をつけようとして、やめる。
「いや、好きってそういう好きじゃなくて、なんというか、最近ほら雰囲気が変わったから、でもいまのが似合ってないって訳じゃないんですけど、多摩川で会うときの方が親しく話せるって言うか、なんていうのかな、あ、トイレに行ってきます、トイレはあそこです、あ知ってますよね」
まっ赤な顔を色んな表情に変えて一気に喋ると、そそくさと席を立ってしまった。顔でも洗ってきたのか、席に戻ったときにはすこしこざっぱりとした表情になっている。その変化がまた可愛らしかった。
「そういえば今日ってなんのお祝いだったんですか?」
え、と声を出して私は固まった。まさか遊ばれた男を罠に掛けて惚れさせたお祝いなんて言えるわけがない。
「あの、あんまり大したことじゃないんでまたこんどお話ししますね」
そうですか、と彼は深追いせずワイングラスに口をつけた。
「そう、実は五和さんに報告することがあって」
加納さんは姿勢を正しあらたまった。なんでしょう、と私も一緒になって背筋を伸ばす。
「ほら、コンクールに出場するって言ったでしょ? 実は昨日、一次予選を通ったことがわかって」
「すごーい!」
私は興奮して思わずその場で足踏みした。
「すごすぎる! 加納さん天才!」
「いや、運がよかったんです。でも、やっぱり自分でも嬉しくて。だから昨日五和さんから電話があってびっくりしたんです」
「二人同時に同じタイミングでお祝いなんて。あ、でもそう考えるとせっかく加納さんのお祝いでもあるのに加納さんに料理作らせちゃってゴメンなさい」
「なに言ってるんですか。五和さんだって一緒に作ったし」
私は恥ずかしくなってうつむいてしまう。
「優勝なんて無理に決まっているけれど、次は二次予選のためにレシピを考えたり実際に作ってみたり、そういう時間を割けることが楽しみなんです」
「無理なんて言わないでください。やろうと思えば、人間なんだってできます」
私は自分をふり返ってそう言った。
「とりあえずなにかをはじめることが一番難しいと思うんです。でもいちどはじめたならあとは走るだけ、ぜったいそこまで辿り着く」
ぜったいに無理って思っていたって、昌弘さんをふり向かせることができたんだから。
「頑張ります」
「楽しみにしてますね」
私たちは今日何度目かの乾杯をする。グラスの重なる音が誰もいない店内に響くと、急に私たちは無言になってしまった。
もっと一緒に飲んでいたい、そう思っている自分に気がついた。
時計を見る、もう午前零時に迫ろうとしていた。いつもならもうとっくに自分から切りあげて帰っている時間だ。相手が誰であろうと「じゃあそろそろ」と切り出すのになんのためらいもなかった。でもそれができない。私が時計を見たのに気づいたのか加納さんもそわそわとしはじめる。「今日はありがとうございました」とどちらもまだ言い出せない、もどかしい空気が私たちを包んだ。
私の携帯電話が鳴った。
針でつつかれた風船みたいに、パンといっぺんに靄が晴れた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、なんてお礼を言っていいのか」
片付けをする、と言う私を頑として加納さんは断った。店の外まで出て、彼は私を見送った。なんどふり返っても、なんどでも彼は私に手を振ってくれた。