■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…

■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など

※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。

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第8章 奥義、キラ☆キス

☆31

私が彼氏でもない男性の腕を自分からとったのは、キョロメガネくんがはじめてだった。それは美術館のなかで、目の前の蓮の絵画について彼が説明しているときだった。キョロメガネくんは来栖現という画家と彼の女癖の悪さについて熱心に話していた。私にとってどうでもいい話の最中だったからこそ、私は左手を彼の右腕にすっと伸ばせた。

「で、この来栖さんの作品はいいの、悪いの」

そう言って彼の腕に触れる瞬間、噴き出た汗が一瞬で蒸発してしまうくらい緊張したけれど、どうやら彼は私以上に緊張したみたいだった。それまでどんな質問にも1を訊けば128くらい答えていたのに、私が彼のジャケットの腕に手を触れたときはゆうに5秒は硬直していた。

「伴侶の死後の作品は、悪くないですね」

たったそのひと言だけ言って、また黙ってしまった。

「つぎ行こう?」

私がそう言うまでついに彼は動かなかった。数歩歩き出したところで私は腕を離す。あれだけしゃべっていた彼が、そのあとは口数が少なくなり、視線が合うと恥ずかしそうに目を伏せた。

トシの場合はその反対、というか、まったくもってお構いなしだ。

映画を見終えて隣に歩いている最中に腕をとったのだけれど、歩く速度も変わらなければ会話だって途切れない。でも、ちょっと離れて歩いていると、自分から手を伸ばして私の腕をとり、自分と寄って歩くように無言で示した。それどころか、

「ちょっと、ちゃんと手つないでよ」

と自分から私の手を取ろうとする。なんて図々しいんだこの男。こんな奴が世間にはいるのか。いろんな男の人を知れば知るほど、それまでの自分がほんとうにわずかな種類の男性しか知らなかったことに気づかされる。

「調子に乗るな、小僧」

一緒に映画館に入ると、手を取るどころかトシはキスまで迫ってきた。私は手のひらで彼の顔を払うと鼻で笑ってあしらったけど、心中では五百枚のシンバルがいっせいに空から降ってきたような轟音が鳴り響いてた。新海さま、どうやら私にはキラキスなど夢のまた夢のようです。いつかキラキスも自在に使いこなせるようになるのだろうか。

「なんだ、サワさんもキスしたいのかと思ってた」

「なにその広告代理店の男みたいなセリフ」

勘弁してよ、と私は本気でため息をつく。いくら練習相手とはいえトシとのやりとりはさすがに疲れる。でも極端な男の子といちどやり取りをしておくと、あとで同じ練習をするときに精神的に余裕ができた。

キョロメガネくん、トシだけにかかわらず、私が腕をとったときの反応は他の人の場合もみな違っていた。けれど、新海英之が言っていたように不快を示すような態度をされたことはいちどもない。そもそもそれを不快に思うような男性であれば、私と二人でなんて会わないんだ。それにそんな態度を露骨に示しそうな人とは、今後もう二人で会う必要なんてない。

触れた手は、必ず自分から離した。

面白いことに、その後の空気はそれまでよりも親密になる。微笑まれる回数が増えたり、みなどことなく腕を組んで欲しそうな素振りをするように見えた。

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