■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…

■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など

※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。

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第8章 奥義、キラ☆キス

☆29

「余裕で、セーフ!」

月曜日だというのに、駅まで走る必要もない。身だしなみを整えるために以前より一時間近く早起きするようになったし、それが習慣になったため苦にならない。日に日に化粧やヘアセットの技術が上達していくのも実感できる。それにもし駅まで走ったとしても息は切れないだろう。駅までの距離なんて、いつも走っている距離に比べたらほんのわずかなのだ。せっかくのヒールをダメにしてまで走りたいとも思わない。

「五和、気を抜きすぎなんじゃない? いい加減にしなさい!」

会議に遅刻はせずとも、加那山の雷は落ちる。

もはや私の仕事への集中力が削がれていることは、誰の目にも明らかだった。私の雰囲気の変化もあって「小島五和が恋してる」という噂が流れるほどで、仕事の進捗よりもそちらの方が大きな関心を集めていた。恋してないのにそんな噂が流れるのは変な気分だ。でもネガティブな言われ方じゃなかったし、それだけ注目を受けるようになったってことだと思う。

「いつになったらクリスマスイベントの企画書は出てくるの」

「すいません、もうちょっと待ってください……」

「五和、これがどれくらい大事な仕事かわかってる? 一昨年に失敗したばかりなのよ。あなたチーフなんでしょっ!」

冷静な加那山が怒鳴り声を上げた。

会議室の空気が凍る。

一昨年、傑の顧客管理ミスから吹き飛んでしまったクリスマス限定シャンパンの発売イベント。今年は絶対に失敗できない。

もともと年末シーズンはアルコールの売上げが上がるのだけれど、とくにこのクリスマスシャンパンは毎年人気で、イベントもその売上げに貢献していた。でも売上げ貢献よりもさらに大事なのは、イベントによってシャンパンブランドの名前が全国的に報道されることであり、ブランド価値を高める大きな役割を担っていることだった。ここ数年このイベントの企画は私の仕事になっていて、それが一昨年まで成功してきたことが加那山に認められチーフに昇格した大きな理由でもあった。

でも。いまは正直、この仕事に集中できない。

この仕事を無難にこなせても私の人生は変わらない。

今日と同じ、明日がつづくだけだ。彼氏がなく、結婚が遠く、「オネエサマ」と若い子から笑われる毎日がくり返されるだけ。

だけど、私がモテる女に変わることは、確実に私の人生を大きく変化させる。

実際に、もうすでにすこしずつ変わりはじめてるんだ。昌弘さんさえも、仕返しのテーブルに引きずり出した。このまま途中で投げ出すことなんてできない。

仕事は後からいくらでも挽回できる。

でも、私が変わるチャンスはいましかない。年齢は、巻戻らないんだ。

「実務のペースも遅いし、エクスポージャーだって未達、クライアントとのやりとりも雑だし、小さなミスなんて数えあげたらキリないわ。いいかげんにしなさい、五和、ここ数週間は大目に見てきたけど、これが言うの最後よ。ちょっと自分のしてること考えなさい」

はい、と私は頭を下げる。加那山が部屋を出て行くまで顔を上げなかった。でもその頭のなかで回っているのは加那山の言葉ではなく新海英之の言葉。いまの私には加那山の雷も響かないのだ。

あした恋するキス講座いわく。

☆好意の表現はデジタルに。1か0。オンか、オフ。

これも実践編。好意の表現にはメリハリをつけるべし。たとえば、メールひとつにしても「あなたが好き!」という気持ちを匂わせる甘い文章か、「言っとくけど友達だからね」と思わせるドライな文章かを明確にしろ、と。どっちにもとれる曖昧な表現というのは相手に印象を与えられない、つまり相手の思考に名前を書き込めないという。新海英之が言うには、相手が恋愛状態になるまでは曖昧な表現は不必要らしい。それまでは1か0、スイッチオン、オフ、がはっきりしているほうがいいという。

「ただ、いつもいつもオンという意味ではなく、オンとオフのメリハリをつけるべきです。そのスイッチのタイミングの技術が、恋愛の上手下手へと直結します」

ようはアメとムチと一緒だ。これも頭で理解しているのと体で理解していくのでは大きく違う。常に意識してアクションを起こせ、と新海英之は言う。たしかにトシが「オレ年上好きだし」と踏み込んだときのことは印象に残ってる。

つづいてもう二項。

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