■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…

■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など

※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。

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第8章 奥義、キラ☆キス

☆28

女の子は綺麗になること自体が、目的になりうる。でも私の場合はそうじゃない。仕返しのために綺麗になるのだ。ようやく私はスタートラインに立ったんだ。

昌弘さんとの食事を自分から切りあげて達成感を得た私は、もうすこし飲みたい気分だった。そういえばここから加納さんのお店が近いことを思いだして、お店に電話を入れてみる。あそこにはバーカウンターもあったので、ひとりならいまからでも入れるかもしれない。

「小島五和さまですね」

名前を確認したレセプションの男は、短い保留の後すぐに電話に出て「いついらしてくださっても結構です」と言ってくれた。

平日でさえ予約を取るのに二週間はかかる人気店なのに、ひとりだといつでも入れる。こういうときにひとりってお得だ。店内は相変わらずカップルたちで満席だった。ワインも入れると一人二万円は軽く超えるお店に似合うようなカップル。私や傑は友達扱いをしてくれて値段も大目に見てくれるけれど、それでもカノウに来るにはそれなりに覚悟がいる。加納さんとジョギング仲間でなかったら、遠くから眺めるだけで精一杯だったと思う。

「予約も入れないでごめんなさい」

食事のラストオーダーが終わってから挨拶しに来てくれた加納さんに私はお礼を言った。シェフ姿の加納さんは多摩川で会うときの姿とはまったく別人だ。まっ白なコスチュームを、戦闘着のようにまとった姿には隙がない。コック帽で頭が隠れているから、彼の小僧みたいな坊主頭も見えない。童顔に似合わない無精髭とくりくりとした瞳だけが、かろうじて走っているときの加納さんと一緒だ。

「いやいや、いつでもいらしてください。お腹は大丈夫ですか、なんなら軽いもの作りますけど」

「いや、大丈夫。夜十時以降は食べないようにしてるの」

「どうりで。ジョギングの成果も出てますよ」

「どう、痩せた? 痩せた?」

「うーん、もうちょっとですね」

えー、とカウンターに突っ伏した私に彼は「冗談ですよ」と笑う。

「五和さん、別に痩せる必要なんかないのに」

「必要あるんです。いままで自分を磨くことを怠けすぎてました。心を入れ替えて、綺麗になることにしたんです」

「それでかぁ」

「私、どうかわりました?」

綺麗になった、と言われるのをいまかいまかと待っていたのだけれど、彼は「うーん」と顎を手で撫でただけで困った顔をしてしまった。

「自信がついたみたい」

そう言って彼は笑顔を見せる。私はなんとなく納得いかなかったけれど、彼の言っていることは正しかった。外側が変われば、内側も変わる。生まれた自信が、自分をより魅力的に見せる。香月が言っていたことを思いだす。でもどうせなら魅力的になった、と言われたい。そう思っている自分に気がつき、すこし恥ずかしくなる。

「加納さんもずいぶん雰囲気変わりましたよ」

「そうですか」

彼はコック帽をとって坊主頭を指でかく。その仕草はほんとうにただのイタズラ小僧にしか見えない。

「……嘘でした、お店の雰囲気が変わったのかも。お客さんもたくさん増えたし」

私は彼と一緒に店内をぐるりと見まわした。私がはじめて彼の店に訪れたときとは規模も客層も印象もいまとはまったく違っていた。

私が加納さんとはじめて会ったのは四年前だ。ちょうど最後の恋愛が終わったころだった。自分から終わりを選んだ恋愛だったとはいえ、私は数年にわたる不倫の傷をしばらく引きずっていた。心の一部が麻痺していたのかもしれない。仕事をしているとき以外は時間がスムースに進んでいかないような気がしてた。なにをやっても楽しくなかったし、テレビや映画をいくら見たってなんの感情もわき起こらなかった。誰と話していても面白くないから、食事もほとんどひとりで食べていた。

そんなとき、なにげなく入ったレストランが加納さんのお店だった。古い洋風の一軒家を改築した小さなレストランで、ひとりで店に入ったって誰も気にしなさそうだった。実際にお客さんはほとんどいなくて、私はカウンターの端に座ったのを覚えてる。そのころ私にとって食事は単なる栄養摂取の作業になっていた。なにを食べても美味しいとは思わなかったから、ひとりで入っても目立たなそうな店という基準だけで店を選んでいたと思う。その古びた外装のレストランはまさにピッタリで、もちろん味にはなんの期待もしていなかった。

でも、そこで出された料理を口にして、私は驚いた。

美味しい、という言葉では足りなかった。使い込まれたプレートに載った料理たちは、ただ美味しいだけでなく、気持ちよかったのだ。まるで太陽の粒子をいっぱいに閉じ込めたお天気雨を体中で浴びているような気分だった。私にこびりついていたいやな思い出がいっぺんに溶けだして、私の感情がまっさらになっていく気がした。私は大丈夫。私の時計の針はちゃんと動いてる。そう確信できた。思わずシェフの顔を見た。どこかで見覚えがあった。彼も同じように不思議そうに私の顔を見た。それがいつものジョギングコースで顔を合わせている人だと先にわかったのは、加納さんだった。

その夜は「こんなに美味しいもの、生まれてはじめて食べました」と加納さん相手に大興奮して騒いだのを覚えてる。それ以来、周りの人にも加納さんの店を紹介して回った、私なりの恩返しもかねて。もちろん私の口宣伝なんかなくても彼の店はいまのように立派になったと思うけれど、それでも少しは私も協力できたんじゃないかと思ってる。

いまではこんなに席数も多いのに予約が取れない有名店になっている。私としてはやっぱりあの小さく古びたレストランが懐かしいけれど、新しいお店になってもイタズラ小僧のような加納さんの風貌と、彼の丁寧な料理の味はぜんぜん変わらない。

「このお店に関しては、外見が変わっても、中身が変わらなくてよかった」

私が言うと加納さんは「なんのことですか」と首をひねった。

「いや、新しいこのお店も、素敵だと思ったって話です。それもこれも加納さんが頑張ってるからですね」

「いやいや、ぼくの力じゃないですよ。お店って店舗や料理や店員たちだけで作られるんじゃないんです」

彼は店内を見まわして言った。

「お店の雰囲気を決定づける一番大きな要素って、実はお客さんなんですよ。もしこのお店の雰囲気が気に入っていただけたのなら、このお店に来てくれるお客さんにぼくが感謝しなくちゃいけない。そのお礼に自分もできる限りの最高の料理をみなさんに用意させていただくんです」

私はこのお店くらい笑顔の多いレストランを知らない。加納さんの料理は人を笑顔にさせる料理なのだ。

「でもぼくの場合はお客さんに恵まれていて、まだまだ自分の腕は追いついていないって気がしますけどね」

加納さんにそんなことを言われると、昌弘さんにデートに誘われたくらいで膨らんだ自分の自信が薄っぺらく思えてきてしまう。私もまだまだ自分を磨かなくては。

「美味しい料理を作って、お客さんたちが集まって、お店も大きくなって、そうやって次から次へと挑戦することが加納さんの仕事なんです。自信持ってくれなきゃ私が困ります」

私はばんと加納さんの胸を叩いて「わかった?」と厳しく言った。覚えておきます、と彼は笑って私のシャンパンのおかわりをバーテンに指示した。

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