■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…

■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など

※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。

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第5章 美人になりたい

☆16

ジョギングから帰ると携帯電話に着信が残っていた。それが母親からの着信と知って両肩が重くなる。三十代を(好むと好まざるとにかかわらず)独身で生きるには、親からの小言や圧力、計略や威嚇は避けて通れない。「もう孫はあきらめたわよ自由に生きなさい、これからはそういう時代だものね」なんて理解を見せておきながら本心はこれっぽっちもあきらめておらず、というかあきらめる気なんかさらさら無く「結婚の予定は?」→「ないの? ま自由に生きなさい」→「でも結婚はいいけど恋人は?」→「え、それもいないの?」→「なら結婚はどうするのよあなたもういい年でしょ」→振り出しに戻る。という無間地獄が、結婚するまでつづいていく。高度成長期の昭和を生きてきた彼女たちにとって女の人生は結婚抜きでは語れないらしく、納豆みたいな粘りあるプレッシャーは平成の三十代の乙女を悩ませる。

私の場合も例外じゃなかった。

だけど私の母親が私に与えるプレッシャーは、友人たちから聞いている親からのプレッシャーとは質が違った。私の母親は結婚についてはひと言も言及しない。

「お母さん、こんどコートダジュール行ってくるから」

「へぇ、そうなんだ。……えごめん、それどこ?」

「南仏よ。浩樹がどうしても行ってみたいっていうから」

「え、それ誰?」

前に言ったでしょ、彼氏、と母親は答える。

私の母は今年で五十六になる。それなのに彼女は私の知る限りこの十年のあいだ彼氏がいなかった期間がない。私の父親が亡くなったのは十四年前で、その直後は精神的にも参っていたのかしばらくひとりでいたみたいだけれど、私が社会人になった頃に十三歳年下の彼氏ができると、彼を皮切りに二年にひとりのペースで彼氏を回転させている。

「ころころ変わるから名前なんていちいち覚えてられないよ。仕事のひとの名前も良く出てくるしさ」

「浩樹はもう三年も付き合ってるのよ」

「あぁ二十七歳の彼ね」

「いまはもう二十九」

こんな話を聞かされていると、世の男たちはいったいどこにいるんだという気がしてくる。ぴちぴちの三十二歳の乙女が恋人を手にするのにこれだけ苦労しているというのに、なんで私の母親は、よりによって私より年下の恋人とコートなんとかに旅行に行けるのだ。

母親は私に結婚はまだなの、なんて訊かない。でも彼女の恋の話はひとりの女としてのプライドを直接揺さぶってくる。たしかに彼女は私より頭も体もスマートで(しかも私よりバストもある)、またそれをキープするために努力を惜しまない。実際なにも知らないで彼女に会えば四十代前半に見える。それにしたって、自分の娘よりも若い彼氏ってどういうことだ。

「彼、むこうで仕事もしたいみたいだから一ヶ月くらい行ってくるかも」

「浩樹……さん、画家さんなんだっけ?」

「下手くそだけどね。可愛いのよ」

きーっ、とハンカチの端を噛みたくなる。

父が亡くなる数年前からこぢんまりと開いていた画廊ビジネスは、離婚してから目に見えて大きくなった。きっともともと商才があったのだと思う。夫の死が原因で商才が開花するなんて皮肉な話だけど、彼女はあっという間に自分のお店を銀座でも名のある画廊にまでのし上げたのだ。人生いつ、なにがどうなるか分からない。

「前からこの仕事本気でやってみたかったんだけど、あの人が嫌がってたし。ま、早い話が五和の父親はサゲチンだったのね」

ととんでもないことを平然と口にする。娘の私になんと言って欲しいのだ、と彼女の話を聞くたびに私は肩をすくめていた。母親の彼氏はダンサーとか書家とか画家だとか、みな芸術寄りの男たちだった。食事や旅行は全部母親持ちみたいだ。

「しばらく日本離れるから、いちおう、そのための連絡」

「わざわざありがとう。楽しんできて、コートなんとか」

「コートダジュール。ま、私は違う男と二度目なんだけど」

いらない解説、ありがとう。

「五和もいちど行ってみるといいわよ。同じフランスでもパリとはまた全然違うから。恋人と過ごすには悪くないと思う」

いればね、恋人が。あればね、お金が。いつも彼女には悪気がない。それがまた私をいらだたせる。

「最近、なにか変わったことある?」

「とくにないけど……」

「それなら良かった」

ここまで無防備に安心されると、逆にプレッシャーを感じてしまう。彼女のひと言で安心していちゃいけないんだ。変わったことがある、そう答えるべきなんだ。

連絡先を訊けるようになったくらいで、満足なんてしちゃいけない。

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