■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…
■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など
※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。
☆13
翌日の土曜日、私は久しぶりに昼頃まで熟睡できた。体が驚くほど軽い。冷蔵庫のチルド室から適度に凍ったグレープフルーツを取りだして、朝食代わりにする。今日は久しぶりに走ろうかな。ぼんやりと考えながらしゃりしゃり凍った果物を噛むと頭の奥に痛みが走る。
「そうだ、昨日私はついに壁を破ったんだ」
急にそのことを思いだして嬉しくなった。昨夜、連絡先を訊くときの緊張はもうどこにも残っていない。結局、出会ったばかりの人に自分からアプローチをしたところで失うものはなにもない。そのことはいくら文章で読んだって実際に試してみなければ理解できない事実だった。そして私はその事実を手に入れたんだ。大らかな気持ちでパソコンを立ちあげてサイトにアクセスする。
「初めての練習、いかがでしたか」
上々ですよ新海さん、いや新海さまキス講座さま、ありがとうございました。できないことができるようになるって、こんなに清々しい気分なのですね。そりゃキョロメガネくんに私が興味を持ってると思われたのではないか、という心配はあったけれど、きっと私の考えすぎ、新海さまの言うとおり自意識過剰なだけですよね。連絡先を訊いたくらいで相手に誤解なんか……。
「あるいは、相手の方は自分に興味があると誤解されたかもしれませんね」
おいふざけるなニイミ!
信じちゃったじゃんか! お前なんのリスクもないって言ったじゃんか! なんなんだこいつ、出頭しろ、口のなかに凍ったグレープフルーツ丸ごと突っ込んで頭をガンガンに痛めつけてやる!
と私はいてもたってもいられなくなった。誤解させたかもしれない? 「ははん、この五和って女、俺のこと気になっているんだな」とキョロメガネくんが思ったかもしれない? そう思うだけで恥ずかしさで全身に汗が滲んでくる。なんてことをしてくれたんだ新海。PCの画面にむかって怒鳴りつけたくなった。がるるるる、と唸った私がかろうじて正気を保ったのは、次の一行が目に入ったからだった。
『あした恋するキス講座』いわく。
☆好意を持っていることを相手に知られることは、リスクではない。
なんですと? とグレープフルーツを口に入れて首をひねる。凍らしていたのを忘れていて頭がキンキンに痛くなった。
「このことが、モテるための恋愛の戦略においてもっとも誤解されやすい箇所で、かつ最も重要なところでもあります」
私はなんども深呼吸をして冷静に文章を追う。
「もしかしたらあなたを臆病にさせていた最大の原因は、自分の気持ちを知られてしまうことではなかったでしょうか? ほかのどんな理由も、実は本心を覆い隠しているだけで、あなたの奥底で震えていたのは『自分が相手に好意を持っていると思われてしまう』という気持ちではなかったでしょうか」
その通り。まるで予言されていたようで、私はなんだか居心地が悪い。
「その考えは正しいし、当然の気持ちです。
でも、それは実はリスクとはならないのです。
忘れてしまった方はもういちど三つの定義のことを思いだしてください。ポイントは、いかに相手の頭のなかに自分の名前を多く書き込むかです。一分でも一秒でも長く自分のことを考えさせる。相手の気持ちを獲得するには、あらゆる行動はその一点を目指さなければなりません」
新海英之は言う。もし自分が誰かから好意を持たれていると感じたとき、その相手の見方が変化しないか、と。好印象、悪印象にかかわらず、なにかしら相手を意識するのではないか。
たとえば「もしかしてキョロメガネくんは私に興味を持っているんじゃないか」と思うと、確かに私のキョロメガネくんへのイメージはずいぶん変わる。別にこれといって好印象でもなければ悪印象でもないけど、でも「なんでこの人は私なんかに興味を持っているんだろう?」と気になることは間違いない。中川紀美子のように日常的にモテまくってる、大漁旗を掲げながら毎日生活している女の子ならそんなこと気にもならないだろう。しかし日常的に「好きです」なんて言われ慣れていない私にとっては、興味を持たれただけでどこか心のナイーブな部分がくすぐられる気分になる。
『あした恋するキス講座』はつづく。
「モテる人というのはほとんど例外なく、相手を誤解させるための高度な技術が身についている人です。意識的、もしくは無意識に、好意を相手に示せる人です。 恋愛において、自分の気持ちを知られずに好意を持たれたほうがいい、というのは大きな間違いです。もしあなたに恋人ができるのだとしたら、遅かれ早かれあなたの
気持ちは知られるのだから。
最も大事なことは、相手から好意を受けること。
自分の好意を知られないことではない。
その優先順位をはっきりしておかないと、あなたの自尊心はやがて大きな足かせとなるでしょう。相手の心を手に入れるためには自分の気持ちを差し出すこともいとわないことです。問題なのはその差し出し方であり、効果的な使い方です……」
確かに、この相手がキョロメガネくんではなく、本当に好きな人だったらどうだろう。好きな人と一緒にいられるなら、どちらが先に気持ちを明らかにしようが私には関係ない。最後まで気持ちを隠していた方が偉いなんてないし、隠していたせいで好きな人がほかの誰かの元へ行ってしまうなんてこともありえる。そんなの最悪だ。
私の優先順位ははっきりしている。
恋愛において「好きな人と一緒にいる」こと以上に大事なことはない。
じゃあそれが好きでもない人に、たとえばキョロメガネくんに勘違いされてしまったら? 実際すこし恥ずかしい。でも割り切ったことを言ってしまえば、私にはほとんどなにも関係ない。だってこちらから連絡するつもりもないし、おそらくまた会うことだってないだろう。リスクがない、というのはつまるところそういうことだ。綺麗事ばかり言ってる暇なんかない。女性の恋愛マーケットは年齢と反比例して規模縮小していく過酷な戦場なんだ。生き残って勝ち取るためには日々着実に積み上
げていく地道な訓練、それ以外にない。
そして、その訓練は、私になにひとつ失わせない。
やってみたら、なんてことなかった。
私は胸を張って声に出す。
「待ってなさいよ、中川紀美子、小暮昌弘」
あなたたちが地団駄を踏みたくなるようないい女に変身してやる。そう気合いを入れた頃には、グレープフルーツはもう溶けていた。