■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…
■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など
※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。
☆12
よーし、やってやるぞ。やってやるからな。見てなさいよ、神よ、恋愛の神様よ私はやるぞ、いまこそ連絡先を訊きますぞ! と決意してからもう一時間くらい経つ。ぜんぜん訊けない。怖くてお酒ばかりがすすむ。
上司の加那山に連れられてタイ人の画家の展覧会レセプションに来ていた私は、ごったがえす会場のなかから誰かひとりの連絡先を訊こうと心に決めていた。レセプション会場は美術館の一室を使って催されていた。ケータリングの料理がならぶテーブルの他に、私の部署が扱うシャンパンが用意されているコーナーがある。二百人前後の客たちは三十代から六十代の男女で外国人の姿もある。ノータイのラフな格好をしている中年もいれば、和装をしている同世代もいた。 正直私は絵のことなんかわからないし、英語で会話するのも得意じゃない。次から次へと挨拶を求められる加那山とはいつしか離れてしまい、私はしばらくビバレッジブースの近くでシャンパンを飲んでいた。いくら今日は仕事じゃないからといってもこんな場所で酔っ払うわけにはいかない、とわかっているのに私はすでに三杯目の
シャンパンを飲み干してしまっている。
それもこれも、さっきからちょうど同い年の学芸員の男と話しているからだ。
背が低くものすごく痩せている彼を特に印象づけているのは青縁のメガネだった。角張ったデザインのメガネの奥では、神経質そうな切れ長の目がせわしなく動いている。顔も雰囲気も、私のタイプではなかった。名刺交換をした直後はクリスマスに限定発売するシャンパンの話を私がしていたのだけれど、彼はすぐにその話をさえぎると早口でイスタンブールの画家の話をはじめた。
「それはたしかに中近東の文化的な背景をパースペクティブに捉えれば、あ、これは比喩的な意味ですが、ベイの登場の重要性は認めるけれど、ぼくにはあの淑女に、何億も出す価値があるとは思えないんです! そんなことをしてしまったら絵画市場のバランス、ひいては芸術における絵画の位置づけというものが……」 熱意を持って語りかける彼、しかし私にはそれが日本語であるということ以外、彼の話をまったく理解できなかった。私が曖昧にうなずいているあいだに、彼はシャンパンを飲み干して次の一杯に手を伸ばした。酒気のせいか憤りのせいなのか(何に憤っているのかは全然分からないけれど)彼は頬をまっ赤にして私に熱く訴える。訴えられても困る。
この男の連絡先を訊こう。
そう思ったのは彼の熱弁が10分もつづいた頃だった。共通の話題もなさそうだし、心トキメクものもない。今後彼と私が恋愛に発展することはなさそうだと思った。さっき名刺を交換したけれどそこには彼の個人的な連絡先は書かれていなかった。というか、もう名前も忘れてしまってる。落ちつきなくキョロキョロと視線を走らせる彼を、いま便宜的にキョロメガネくんと呼ぼう。
──よしキョロメガネくんの連絡先を!
と決めてから声が出ない。意味のない相づちならいくらでもうてるのに、自分の仕事のことならいつでも話しはじめられるのに、連絡先を、の「れ」の字も発音できない。
私は認めざるを得ない。
別にいまキョロメガネくんに迷惑がられても全然かまわない(むしろ私の方がいま迷惑しているのだし)、嫌われたって結構です。それでも私が声をかけられないのは、もっと別の理由があるからだ。
私が彼に興味を持っていると思われたら、どうしよう。
それは私のなかに眠る、尊大な自意識。
どうしても認めざるを得ない、「彼なんかに」という上から目線の私の存在。キョロメガネくんのことなんかまだ全然知らないのに、私は彼を圧倒的に軽んじている。つまらない男、話の合わない男。彼に誤解されたら恥ずかしい、だから私は声をかけられない。そんなことを考えていると「興味のない人の連絡先なんか訊いても」と、そもそものスタート地点に反論したくなってくる。
私にはわかってる、それが言い訳だってことを。
これは練習なのに、それさえもできない自分への言い訳。
それならもし、私が彼に興味があったとしたら(たとえば昌弘さんのように)? やはり同じように「興味を持っていると知られたらどうしよう」という恐怖が湧き上がってくる。「迷惑と思われたらどうしよう」というのは、その後につづく二次的な恐怖に過ぎない。
新海英之が言っている意味が分かった気がした。実際に意識して動いてみると、自分の行動を妨げていたものの理由が身にしみる。
「興味を持っていると思われる」リスク。
それが誤解であれ、本心であれ、そのリスクが私の体を押さえつけていた。でもあえて新海英之はそれはリスクじゃないという。そんなものは幻で、実際には、失うものはないという。
ほんとうだろうな、お前。
ほんとうに、興味を持っていると思われないんだろうな。
信じるぞ。信じちゃうぞ。もうどうなっても知らないからな。私は手のひらにかいた汗をぐっと握りしめて声を出した。
「あの……」
とキョロメガネくんの話をさえぎる。唇が乾いているのが分かって、シャンパンをもう一口飲み込む。これがはじめて自分から連絡先を訊く経験だ。これは練習だ、練習なんだ。胸で十回繰り返してから、私はとうとうキョロメガネくんに言った。
「私もうそろそろ行かなきゃいけないんですけど、携帯教えてもらってもいいですか?」
キョロメガネくんが、キョロキョロしない。「また飲みましょう」
そういって私は自分の携帯電話をとりだした。
キョロキョロしなくなったキョロメガネくんは、ぽかん、と口をあけた。それがどれくらいの時間だったか分からない。きっと秒針がいちど動くかどうかの間だったと思う。でも私の凍りついた体には気の遠くなるような時間だった。これは練習だ、練習なんだ。もう声をかけた時点で練習は半分以上終わってるんだ。もし相手が携帯を取りだしたら? それは練習成功。もし「名刺に書いてあります」と言われたら? ちょっとムカツク。でもここから学ぶんだ。次の練習では切り出し方を変えてみる、そう考える、これは練習なんだ。私はできるだけ自然に笑顔を作る。秒針が動く。
「えぇ、ぜひ」
彼はなんでもなさそうに自分の携帯電話をとりだした。
「なんか自分の話ばっかりしちゃって申し訳ありませんでした」
彼は恥ずかしそうに言った。ぷはぁ、と私は彼に気づかれないように静かに深呼吸した。メモリに彼の番号を登録する。いっぺんに体から力が抜けた。やり遂げた、やり遂げましたよ先生。この場に布団があればすぐにもぐり込んで眠りたいくらい、疲れていた。自分がどれくらい緊張していたのかを実感する。
「楽しかったですよ。連絡しますね」
私はそう言ってその場を去る。
これが新しい私への第一歩だった。