■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…
■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など
※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。
-前回まで-
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を
終えてから、4年ぶりに恋が訪れた。同じ会社の隣の部署に勤める小暮
昌弘と、酔って一夜をともにしたのだ。そんなある日、五和は同期の傑
（すぐる）に頼まれて、五和の後輩であり全社のアイドルともいえる紀
美子との合コンをセッティング。しかし若い男女の中で浮いてしまい、
ひとり逃げ出して社に戻った……。
☆7
仕事は言い訳じゃない。仕事は言い訳じゃない。仕事は言い訳じゃない。
私はレストランの外でタクシーを拾うと、そのまま会社まで戻った。
悔しかった。なにが悔しいって、こんなくだらないことで自分が傷ついているのが悔しかった。ただ若い子たちに冗談を言われただけじゃないか。そんな傷つく必要なんて本当はないじゃないか。
でも、気を抜いてしまうと涙が出そうになった。
エレベーターを上がりフロアに出る。ＰＲ部のライトは消えていたけれど、営業部の明かりはまだついていた。もしかして、と閃いて営業部の前に歩いていった。
ひとり部署に残っていた昌弘さんが電話をしていた。
私には気づいていない、ただ電話をしている彼の横顔を見ただけで私は救われた気になった。紀美子たちがなんて言っていようとかまうもんか。私は出会いなんて求めていない。習い事もゲームも必要ない。いままで仕事に向かい合ってきたご褒美は、もう神様が用意してくれたんだ。
この前も、今日のように二人だけが会社に残っていた夜だった。
この夜さえあれば、昌弘さんさえいれば、私はだれに馬鹿にされたって平気なんだ。
「へぇ、それで小島さん半ベソで帰って行ったわけ？ マジウケるね」
体中の血がいっせいに逆流するようだった。
「ていうか、わざわざ俺の所に『合コン行っていいですか』ってメールあったもん。よりによって紀美を誘うなんてな……はは、そうそう、破れかぶれ……ばか、ヤキモチやくなよ、小島さんだぜ？ なんにもないよ、あるわけないだろ……勘弁してくれよ、一緒に飲んだだけだよ、それでちょっと誤解してるみたいだけどさ、ほら、彼女、彼氏が長いこといないらしいから社交辞令とか鈍感なんだろ……うん、うん、わかった、あともうちょっとで終わるから……酒は家にあるからいいよ、ツマミだけ買っておいて……はい、じゃあね、後でね」
ちゃんと結果を報告しろよな。そう言っていた傑（すぐる）に電話する気力もなかった。この結果はあまりにも非道すぎる。もうすっかり酔いの覚めてしまった体を終電車に乗せるのがやっとだった。
傑の言っていたことは本当だった。昌弘さん、いや、あの小暮昌弘はろくでもない男だった。スマートで、誰にでも優しく、女子社員の憧れだった小暮昌弘は、皆の目を盗んでＰＲ部の中川紀美子と交際していた。二人はお互いの社内のポジションを守りながら、それに翻弄される人たちを気持ちよく眺めながら、密かに交際していた。
……いや、そんなことはどーでもいい。ただ、そんな男と酔ったはずみで寝てしまった自分が情けない。彼の笑顔やメールに一喜一憂し、勝手に未来の彼氏を想像していた自分が悔しい。ちょっと考えればわかることなのに、なんで私は小暮昌弘に夢中になっていたのだろう。
──理由はわかってる。
あせってたんだ。そんなのあせる必要ない、あせったってしょうがないって思ってたけど、でも毎日の息苦しさから逃げだしたいと思ってた。
「悔しい」
私はつぶやいた。周囲の乗客が一瞬固まったけれど、彼らは聞こえていないよう振る舞った。ひとりだけ私の目の前の女の子が一瞬ふり返ったけど、視線を合わせずまたすぐに自分の携帯画面を覗き込んだ。
その女の子が、先週私を遅刻させたエスカレーターの女だと気づいた。二十代の、中川紀美子と同じ、私にとっての怪物だ。もう、この子たちに私はかなう気がしない。なにも勝負をしているわけじゃないし、悪意だって持ってない。だけどただ、純粋に、三十代の私はこの女の子たちに「かなわない」のだ。
「悔しい」
もう一度つぶやいた。小暮昌弘に仕返ししたい。中川紀美子に仕返ししたい。今日、私を笑った女の子を、今まで無言のプレッシャーを与えてきたすべての人を、ぎゃふんと言わせてやりたい。そのためだったら、どんな努力でもできる、そう思った。こんなに心の底から、綺麗になりたいと思ったことはない。もし今この願いがかなうなら、たとえ他の何を失ってもいいと思えるくらい、私は異性からの圧倒的な興味が欲しかった。それで、私を笑った人たちを、全員見返してやるんだ。
──そんな方法が、あればだけれど。
電車が私の駅へと近づいていく。
私はエスカレーターの女が真剣に携帯画面を覗き込んでいる姿を呆然と見ていた。この女の子は、数年後、私と同じように感じることがあるのだろうか。電車がスピードを落とし、大きく揺れる。女の子は体を斜めにしてバランスを取った。吊革につかまった私は、ちょうどその後ろから彼女の携帯電話を覗き込むような形で姿勢を保った。
「あした恋するキス講座」
女の子が熱心に読んでいる恋愛マニュアルが目に入ったのは、電車がホームにさしかかったときだった。
