■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…
■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など
※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。
☆8
それは会員制のwebサイトだった。
内容はいわゆる恋愛マニュアルと読者たちの掲示板。私はそれまでその手のマニュアルを軽蔑していた。恋愛に技術なんて必要ない、気持ちで動いて、気持ちで受けとめるのが恋愛のはずだ。人から教えてもらったとおりに動いたりしたら、それこそほんとうの自分からは遠くかけ離れてしまうじゃないか。とりつくろった自分を好きになってもらったって、それは自分自身じゃない。
それなのに、世の中には恋愛マニュアルにすがりつく女性がいる。
そうまでしても恋愛がしたいのか、と私は彼女たちのことも鼻で笑っていた。ワラをもつかみたいと思う姿勢こそが男を遠ざけているんだ、と今まで私は思ってた。
でも、私はわかっていなかった。
切実な想いを、理解していなかった。ほんとうに恋愛がしたくて、でもどうしても上手くいかなくて、もう自分ではどうしたらいいのかわからない、その途方に暮れてしまう気持ちがどんなものなのか、想像できなかったのだ。私が恋愛マニュアルを手にしたことをもっとも馬鹿にして笑うのは他でもない、それはかつての自分だと思う。
でも今の私は当時の私に言ってやる。
「あなたにはほんとうに、人の気持ちを理解する想像力はある? 泣きたいくらい恋愛を手にしたいと思ったことがある? ただ笑って自分の現状をごまかしているだけの私を、私はもうやめにしたのよ」
ぜったいに誰もがうらやむ恋愛を手にしてやる。
そのためにはなんだってやってやるんだ。昌弘さんを、紀美子を、彼女の仲間たちを、彼氏がいないからって無言で私をあざ笑ってきた社会全部を、見返してやる。クレジットカードの番号を入力する。金額にしたら二千円ちょっとに過ぎないけれど、私にはその金額よりも精神的なハードルを越えるのに、かつてない勇気が必要だった。それこそ四万円のワンピースを買うよりも遙かに緊張して私は会員手続きを進めた。登録に必要な情報を入力し、息をひとつ吐く。目を閉じて唇を噛むと、エンターキーを押す。
私はそうして「あした恋するキス講座」を手に入れた。
あした恋するキス講座は、新海英之(にいみ・ひでゆき)という男性によって書かれていた。
彼のプロフィールはほとんどなにも記載されていない。東京都在住、というだけで経歴や職業も不明。てっきり心理学者かなにかによって書かれているのだろうと思っていた私は肩透かしをくらった気分になった。もしかしたら変なネット商法に引っかかってしまったのかも。と、新海英之が書く文章の先を読み進める。 「本講座にきちんと従って生活を変えていけば、三ヶ月でいまよりもモテるようになります。でもそのためには、このマニュアルに掲げている努力や練習は不可欠です。」
というところで、深呼吸する。
三ヶ月で変われる。それのためならどんな練習だって努力だってしてやろうじゃないか。
彼はこの恋愛マニュアルを読み進めるにあたって、まず三つの定義を理解することと注意している。このマニュアルに書かれるあらゆる技術は、この三つの定義を理解しないと意味をなさないという。
① 恋愛の定義。
② モテの定義。
③ 戦略の定義。
の三つだ。まずは恋愛そのものの定義。
あした恋するキス講座いわく。
☆恋愛状態とは、本人の思考が第三者に寡占(かせん)された状態を指す。
ちょっとよくわからない。
このマニュアルは見出しのあとに、その見出しの言葉の解説がつづいている。それを読むと、つまりはこういうことだった。
たとえば一日の中で考えていることを円グラフにしたとする。
その中身は週末の予定だったり、期日の迫っているプレゼンだったりと多岐にわたっていて、それぞれの関心の度合いによって割かれる時間や集中力が変わってくるらしい。でも、強い恋愛状態にあるときはこのグラフが、
と大部分をその人に奪われてしまうという。寝ても覚めても昌弘さんのことを考えていた自分にはすごく分かりやすい。しかも新海英之はこの対象が人とは限らないという。ブランドの鞄だったり、雑誌で見つけたアクセサリーだったり、ミシュランで星を取ったフレンチだったりする場合もある。そのときはブランドの鞄に対して恋愛状態にあるらしい。それどころか、嫌いで嫌いで仕方がなくて、一日中その恨みつらみで相手のことを考えてしまう場合も、やっぱりこの円グラフを寡占されてしまっているから実はすごく恋愛状態と似ているみたいだ。そういばワイドショーで元恋人のことをものすごい剣幕で罵倒している有名人がいたけれど、それを見ていた私は「この人、まだ好きなんだろうな」と思っていた。好きと嫌いは対極じゃなくて同じコインの裏と表だって言うけれどそれはこういうことなのか。