■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…

■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など

※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。

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第2章 オネエサマ

☆5

あの時、洗面所に入ってきたのが紀美子だとはすぐに気がつかなかった。どうやら女の子が同僚とランチ後の歯磨きをしに来たらしいことだけがわかった。そのときトイレから出ようとしていた私は、立ちあがってドアノブに手を掛けていた。そのまま一歩も動けなくなったのは、彼女たちの会話を聞いてしまったからだった。

「オネエサマ、今朝マジウケなかった?」  

それは確かに紀美子の声だった。

「あー、オネエサマが寝てたやつ?」

「あれヤバかったねー。二日くらい徹夜で仕事してたんでしょ?」

「会議中、一瞬落ちたあと急に目が醒めてさぁ、びくうっ、とか震えて」

「ウケたー。後からもう一回思いだしてツボったもん」  

女の子たちは同時に吹きだした。

「あれマジ素の顔だったでしょ、素」

「キョトン、みたいな」

「キョトンのスッピン、みたいな」  

笑いをこらえる苦しそうな声が聞こえる。それまで自分がオネエサマって呼ばれていることも私は知らなかった。両腕に鳥肌が立っていった。

「化粧も手ぇ抜いてたしさー」

「ほぼスッピンだったでしょ。化粧で年隠せっての」

「つか三十過ぎて仕事で徹夜とかありえねー」  

ぐさり、と胸に言葉が刺さる。私はトイレの便座に力なく座り込んだ。

「ふつう仕事にどんだけ追われてても女は捨てられないっていうか」

「あれじゃオネエサマ、彼氏できないよねー」

「オワッてるー」

「女として終了しましたー、みたいな」

「やだ、ちょっとここのトイレ誰か入ってない?」  

私は身を凍らせた。

「……モップ入れでしょ」  

こいつら。私はいつの間にか両手のこぶしを握ってた。私はモップでもバケツでもない。

「あ、またあの顔思いだしちゃった。キョトンのスッピン。もう午後仕事できないじゃん!」  

声色から言葉遣いまで、すべてが私の知っている紀美子と違いすぎた。身動きひとつせず、私はトイレの中で息を殺した。

「そのうちオネエサマ、犬とか飼い出したりして」

「で、私の彼氏、とかいって写真持ち歩いたりして」

「ありそー。血統だけは異常にこだわりそー」

「ねぇ、オネエサマって彼氏いたことあるの?」

「私が入社したときにはもう仕事の鬼だったよ。いたとしたら昭和じゃない?」

「やだ、私そんとき幼稚園なんですけどー」

「ほんと、五和さんみたいな三十代だけにはなりたくないっていうか」

「三十代独身、彼氏ナシ、仕事バリバリ、とかいって。しらふじゃ生活できなーい」  

すいません、私しらふなんですけど。

 やがて話題は次の合コンへと移り、ひとしきり笑った後、彼女たちは満足そうに出て行った。

 彼女たちが出て行ってから、私はしばらく立ちあがることさえできなかった。

「ねぇ、そんなに彼氏がいないことが悪いわけ?」  

紀美子のことを思いだしてムカムカしていた私は、回ってきた酔いにまかせて傑に言った。

「なんだよ急に。そんなこと言ってないだろ」

「でも、みんなそう思ってるじゃない。仕事を一生懸命していることがそんなに悪いわけ? 男の人だってそういう人いるのに、なんで女だけがそんな言われかたしないといけないのよ」

「だからぁ、そんなの被害妄想だって」

「嘘。男が独身で仕事に打ち込んでいても、こんなプレッシャー感じないんじゃない?」

「そうかなぁ」

「そうよ。でも仕事に打ち込む独身の三十女は、そのプレッシャーを感じるの。誕生日とかクリスマスとか、どう過ごしたのかなんて絶対に誰も聞いてこないし、恋愛とか結婚の話を私の前でするときは、なんか変に気を使われている気がする。仕事以外のコミュニケーションなのに、仕事以上に神経質になってくる。そうすると肝心の仕事までやりにくくなってくる」

「大袈裟なんだよ。三十代楽しいじゃん。それは男も女も一緒だろ」

「そりゃね、仕事も自分で回せるようになるし、お金にもある程度余裕は出てくるし、上質なものへの知識だって増えたと思うわよ。傑の言うとおり、たしかに楽になった部分はある、でもね、その他の部分は男とは違うの、ぜんぜん違う。あなたたちは出産をしないんだもの。三十代の女が感じるプレッシャーは男には絶ーっ対にわからないわ」

「……五和、最後の恋愛っていつだっけ?」

「四年前」

「不倫のやつ?」

「不倫のやつ」

 私は傑よりもさらに深いため息をついた。

「それから彼氏なしか。まぁ、恋愛の美味しいところだけかすめ取ろうとした罰だろ」

「別にいいの。仕事で忙しかったんだもん。相手も突かれたら痛いところがあるから、こっちが忙しくても文句は言わなかったし、楽だったのよ。それに年の離れた人だったからイロイロ教えてもらえたしね。男の良し悪しを見分ける技術だって勉強に……」

「それでハードル上がっちまったんじゃネェの?」

「それを言わないで。とにかく仕事が……」

「だからさ、五和、お前仕事のしすぎなんだよ。オレみたいに仕事は適当に、遊びは真剣に、くらいじゃねぇと息が詰まっちまうんだ。なんか趣味とかないの? ほら前はちょくちょく走ってたじゃん」

「最近忙しくてぜんぜん走ってない」

「落ち込んでるときは汗流したほうがいいって。そこでの出会いもあるだろうしさ」

「ジョギング仲間になるだけよ」

「気になる男は?」

「……」

「小暮昌弘だけはやめとけよ」

 傑は目を閉じてしばらく額をこすっていた。ホッケ焼きは大きな身をのこしたままもう冷めてしまっている。話し疲れた私が大きなあくびをしたときに「よし」と傑は手を打った。

「合コンやろう。男を集めてくるから、五和はPR部の女の子に声をかけてよ」

「……それって、ただ傑が紀美子と飲みたいだけじゃないの?」

「バカ言え。親友のためにひと肌脱いでやろうって言ってんじゃねぇか」  

傑はふんぞり返って鼻を鳴らした。

「じゃあ紀美子には声をかけなくていいのね」

「バカ言え。五和も親友のためにひと肌脱ぐんだよ」

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