■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…
■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など
※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。
-前回まで-
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を
終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れ
た30代最初の恋。彼氏（候補）は同じ会社の隣の部署に勤める小暮昌弘。
酔ったふたりは意気投合して一夜をともにしたが……。
☆4
「五和（さわ）、今日は上機嫌じゃん。なんかあったの？」
串焼きを頬張りながら傑（すぐる）は訊いた。
「別にぃ」
「うわー、気持ち悪ぃ。なにその角度。斜めに受け流すなっての」
私はジョッキのビールを飲み干してから、もういちど「別にぃ」と口にした。
「あ、わかった。この前遅刻させられたエスカレーターの女を、逆に遅刻させてやった」
「違う。そんな複雑なことじゃない。もっともっと身近で簡単な話」
「仕事で褒められた？」
「違う」
「ロトが当たった？」
「違う」
「保険料が下がった？」
「違うって」
「あれ、最近髪型かえた？」
「だーっ！ 髪型かえたのは二ヶ月前よ！ なんなのよ、なんで私には彼氏ができたとか結婚するのとか訊かないわけ？ あんだけ中川紀美子の男関係は訊いてくるくせに！」
「あ、なに、五和にもようやく彼氏ができたわけ？」
「別にぃ」
「兄ちゃん、ビールおかわり」
と傑は呼びとめた店員に声をかけた。
傑とはこの会社に転職してきた時期が一緒だった。転職直後の仕事が大変だった時期は、深夜気が向くとお互いのデスクまで行って煎餅やどら焼きといったおやつを渡して励まし合った。社内の同僚とあまり付き合いのない私にとって、彼はお互いに仕事の愚痴を言い合える数少ない友人だった。
店員が持ってきた二杯のビールジョッキを受けとると、傑はふり向きざまに「あ」と大きな声で私に言う。
「小暮さんとなんかあった」
いきなり傑が核心を突いてきたので、私はびくんと体を硬直させた。
「な、なんで」
「いや、今朝自動販売機の前で小暮さんと話してたじゃん」
「それ、それがどうしたのよ」
「いやもう五和の目、思いっきりハートになってたからさ」
「嘘」
「ほんとだよ。あんなの誰が見たって五和が小暮さんに好意もってんのバレバレだよ。ほとんど告白してるようなもんじゃん」
いやだ、と私が恥ずかしがって両手で顔を隠すと、傑は「古すぎるよそのリアクション」とため息をついた。「どしたわけ急に？」
「ど、どうもしてないわよ。ただこの前ちょっと飲む機会があって……」
「はぁ？ それだけで？」
「いや、そういうわけでもないんだけど……」
「やめときなよ、小暮さん。オレ、なんかダメ、ああいうサワヤカ臭い人」
「それどういう意味よ」
私はムッとしてジョッキに口をつける。昌弘さんと同じ営業部である傑に、昌弘さんの様子を聞こうと思っていたのだけれど、出鼻をいきなりくじかれて話す気もなくなってきた。よく考えたらもともと傑は昌弘さんのことをよく思っていないし、これ以上話してもますます反対されるのがオチだ。
「まぁいっか。恋愛には当事者にしかわからないこともあるし。傑に話そうとしたのが間違いだった」
「なんだよそれ。そうやって人の意見を聞けない奴ほど恋愛が下手くそなんだよ」
「別居中の傑に言われたくないわよ」
「ばーか。嫁は恋愛相手じゃないんだよ、嫁はただの家族」
「傑だって私のアドバイスを聞かなかったから別居されたんじゃない」
「ほっとけ。いまオレにはエヌキミさえいてくれたらそれでいいんだよ」
そう言って傑はぽーっと気の抜けた表情になる。
「いいかげん目を覚ましなさいよ。中川紀美子はただ可愛いだけで本当は……」
「ほんと可愛いよなぁ、エヌキミ」
「ちゃんと聞け。そして略すな。だいたいなによ、エヌキミのエヌって」
「中川のエヌに決まってるだろ。可愛すぎるから二重に略されてるんだよ」
いい年して馬鹿じゃないの、と私は呆れる。
「いいじゃねぇか、営業部のやつなんかみんなエヌキミのファンだぜ？ もう全社的なアイドルじゃん。朝、エレベーターで一緒になったりなんかすると、それだけで仕事一日頑張れるんだよなぁ」
「あなた最近ろくに仕事なんかしてないじゃない。女にばっかりうつつ抜かしてないで仕事しなさいよ」
うるせぇな、と傑は口を尖らせる。「ほんとに彼氏いないのかなぁ、エヌキミ」
「やめて。あの女だけは、私ぜったいに許せないんだから」
私は一年前の出来事を思いかえしながら言った。
「……ねぇ、もしかして小暮さんも紀美子のファンなわけ？」
出来るだけ平静を装おうとしたけれど、心臓がとくとくと高鳴っているのが自分でもわかった。
「小暮さん？ まさか。あの人は全社的な色男でいたいから、特定の女に入れあげたりしないんだよ。なんで女は気がつかないのかねぇ……」
「小暮さんは男の人からだって人気あるじゃない」
「そりゃ親会社から来た人事権のある人間だからだろ。小暮さんを悪く言ってあえて嫌われたいとは思わないよ。いけ好かない男だぜ。でもそう言う奴は、見る目のない人間からはちゃんと好意を受ける」
それを言ったら紀美子だって同じじゃないか、と思ったけれど、紀美子と比べるなんてあまりに昌弘さんに失礼なので私は今の考えをすぐ無かったことにした。とにかくいま大事なのは、昌弘さんが紀美子なんかにだまされていないことだ。傑と一緒じゃなくてよかった、と私は心から安堵した。
中川紀美子、怪物の王様。彼女に似ているような人間なんていないと思う、いたら困る。そりゃ一年前までは私だって、可愛い後輩だと思ってた。私より六つも年下で、仕事も加那山流に厳しく教えてきた。ときどき彼女から煙たいような視線を感じなかった訳じゃないけれど、それはただの仕事上の不満だと思っていたし、それ以上の他意はないと感じてた。いつか彼女なりの仕事の仕方を確立したときに、肩を組んで戦える頼もしいパートナーになれるとさえ私は思っていたのだ。
でも、一年前、洗面所で彼女の声を聞いたときに、私は紀美子の恐ろしさを初めて知ったのだ。
