■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…
■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など
※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。
☆47
「私も昌弘さんのことが好きです」
その言葉を聞いた瞬間、昌弘さんの目は大きく見開かれた。
「……でも、いまはお返事できません」
目が見開かれたまま体が硬直し、そのまますっと肩を落とした。
自分の手のひらにじっと汗が浮かんでくるのを感じた。私はいま、もの凄いことを経験している。かつては憧れていた人を、かつては私のことをバカにしていた男を、いまこうして目の前で落胆させているのだ。
スカッとした。
とは、言い切れなかった。なんか、すごく複雑。もっと全身が震えるような喜びを感じるのかと思っていた。でも実際はなんか後味が悪い。
ミュージカルの後、簡単に食事を済ませて駐車場の車に乗り込んだときだった。彼はシートベルトをかける前に、この前の告白の答えを求めた。
「その、こんなこと訊くのあれなんだけどさ、ほんとうにオレのこと好きなの?」
「……はい」
「じゃあつき合えばいいじゃん。お互いに好きだし、デートしてるし、なんていうか、いちど寝てるしさ、もうつき合ってるようなもんじゃん。なんでダメなんだよ」
「……わかりません」
「いつになったらわかるの」
「わからないけど……でも、まだ決心がつかないんです」
ほんとうにこれでいいのか新海英之。もしこの対応が間違いだったらどうするんだ。もし「ならもう二度と会わない」と言われたら? 別につき合いたい訳じゃないからそれでいい、それはリスクにはならない、とは理解していながらもなんだか心がすっきりしない。なんかこう、ほんとうにしたいのはもっと別のことのような。それは傑が言っていた「マニュアルじゃ解決できない部分」のような気がする。
でも、それが何だか分からない。
ずっと考えているけれど、いまいちピントがぼけている。
「わかった、待つよ。五和(さわ)の決心がつくまで」
私より先に、昌弘さんが答えを出した。そしてその答えは、新海英之が予言したとおりの答えだった。私は昌弘さんの思考を占領しているのだ。いやま圧倒的な強者は私だった。
「待つよ。待つけど」
と彼は小さく呼吸をすると、とつぜん助手席に身を乗りだして私にキスした。
「ちょっと、ちょ、やだ!」
彼の体をはね飛ばそうとしても、男の力にはかなわない。体をひねり、頭を振って、肩を押し上げるけどびくともしない。昌弘さんは嫌がる私をお構いなしに、私の舌を探し回った。
私の記憶にある彼のキスよりも強引に。
あの夜のキスよりも、遥かに必死に。
──この人は、私のことが好きなんだ。
私は彼の背中に手を回す。彼は優しく私の頭を包み込む。あー、これ、きたよ。あれだよあれ、キライキス。嫌がっているのに、キスにはポジティブ。キラキス、知らずにやってた。結果的に昌弘さんはまた恋の罠にかかっていく。
「バカ」
唇を離した瞬間、自然に口を突いた。ここに人生初のキラキスが完成した。昌弘さんが嬉しそうに目を輝かせるのを私は見た。
「五和、好きだよ」
そう囁き彼はもういちど唇を合わせる。昌弘さんが恋に落ちていく。私の目の前で、あまりにも簡単に。私は脱力してしまう。私の胸に彼の手が伸びる、それを振り払う気力もない。今日の下着はなんだっけ? 先月買ったアクサミだ、まいっか、この前もこの人は下着になんかまったく興味も見せなかった。
「昌弘さん、ダメ」
私は礼儀上つぶやいてみる。
「五和のせいだ」
火照った声で昌弘さんが囁く。
五和のせい? ちがう、と私は胸で言い返す。
それは新海英之のせいだった。