■あらすじ
仕事バリバリの32歳OL、小島五和(こじま さわ)。28歳で最後の恋愛を終えてから、しばらく恋愛なんかしなくていいと思っていた彼女に訪れた30代最初の恋、そして失恋。その相手を見返すために、「恋愛マニュアル」を片手に、日々奮闘していく…

■作者プロフィール
志羽 竜一 1976年生まれ
慶應義塾大学 経済学部卒 東京三菱銀行退行後、三田文學新人賞を受賞してデビュー。
作品:「未来予想図」「アムステルダム・ランチボックス」「シャンペイン・キャデラック」など

※小説内で小島五和が使う「恋愛マニュアル」はNewsCafeトップページ中段リンクから閲覧可能です。

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第6章 「女」のプロ

☆20

「だーっ!」

月曜日、目覚ましベルを止めた瞬間に寝坊だって気づいた。消したのが「うたた寝アラーム」で、それが何回目かのベルか分からなかった、すくなくとも四回は消してるはずだ。私は恐る恐る時計を見る、ヤバイ、二度と時計を見たくないくらい、ヤバイ。うたた寝アラームなんて遅刻促進機能と一緒だ。五分でシャワーを浴び、五分で用意を済ませ、起床十五分後には部屋を飛び出した。

週明けの早朝会議へ向けて駅まで全力疾走するけれど、体が思うように動かない。昨夜長距離を走ったせいであちこち筋肉が悲鳴を上げていた。

最終コーナーを曲がると、マンションのベランダに歯を磨いている男の子が見えた。

ということはまだ七時半。どうやら電車には間に合ったみたい、と気を抜いたときに足が止まった。目をこすってよくよく男の子が手にしているものをを見た。

歯を磨いてるんじゃなくて、シャボン玉を飛ばしてた。

話が違うじゃないか、シャボン玉を飛ばすのはいったい何時何分なんだ、とまっ青になって再び走りはじめる。駅に着いたのは遅刻決定が確実な七時四十分だった。

「彼がベッドから放してくれなかったんですか? 羨ましいなぁ五和さん」

遅刻してきた私に紀美子は嫌味たっぷりで言う。いまに見てろよ中川紀美子。その一心で、加那山のお説教を耐えた。

今夜はほんとうなら昌弘さんと会う予定だった。彼は最後のメールで、月曜日の夜に会おうと言っていたのだから。でも結局彼から今夜の確認のメールは来なかった。もし「今夜はどうしましょうか」とメールが来たところで、行くつもりもないけれど。……ないのだけれど、

「すいません、今夜は予定が入ってしまったので、キャンセルさせてください」

と私は自分からメールを打ってしまった。送信した直後に、徒労感に襲われた。こんなこと、いちいちメールなんかしなくてもいいのに。そんなこと分かっているのに、ついついメールしてしまう。

そして、メールを打った瞬間から、彼からの返事を待ってしまう。

これって、まだ好きな証拠なんだろうか。

「お先に失礼します」

夜の七時半、私は誰よりも早く会社を後にした。加那山の視線が痛かったけれど、でもいまは仕事より、自分のこと。携帯を確認する、昌弘さんからの返信は来ない。家に帰るとすぐにジョギングスーツに身を包み私は外へ出た。

ジョギング引退宣言はたったの一日で撤回された。

「まず、痩せてきて」

昨日、香月は「ジュース買ってきて」くらい軽い口調でそう言った。私の現体重を紙に書き出させると、その隣に理想体重を彼女が書き込んだ。ものすごく冷静な手つきだった。

「一気に理想体重になれとは言わないけど、そうね、これくらいだったら三四ヶ月かけて痩せてよ」

「そ、そんな簡単に……」

「あ、健康的に痩せてね。不健康に痩せると魅力まで削っちゃうから。だから食生活は考えて。そこらへんに売ってるでしょ、献立(こんだて)本。でもとにかく、毎日汗かいて、でも栄養は摂って」

「食べながら痩せるって。そんなんじゃ、相当運動しないと……」

「なら、相当運動すれば?」

彼女は頬杖をついて言った。

「来週までにいまより痩せてなかったらこの話はナシだから」

「え、来週!」

「あのね、楽に綺麗になりたいとか言ってるんだったら、頼む相手間違えてるっつーの。もともと綺麗な芸能人のダイエット本とか寝ながら読んで満足してりゃいーじゃん。私たちクラブのキャストはね、自分を磨かないと食べていけないの。とくに一流のキャストを目指してる女の子たちは自分自身に大量のお金と時間をかけてるの。泣きたくなるくらい必死な思いで綺麗になってるんだよ」

「……」

「ねぇ、もしかして私たちのことバカにしてた?」

「そ、そんなこと」

「磨くのは外見だけじゃない、新聞や雑誌や映画や小説や音楽やいろんなものに触れてないとお客さんと話し合わないしさ、ただの綺麗な女の子で終わっちゃう。サワさ、去年ヒットした映画と車とバンド、それぞれ三つずつ言える?」

私は黙り込んでしまう。去年やった映画は……いやあれは一昨年だったっけ、車? 車のことなんてなんにも知らない、バンドといえばサザン、でもずっと前から売れてるし、えっと、えっと、なんか名前が中高年向けの芸人みたいなバンドがいたな、ミヒ、ミヒマロ、そうだ! ミヒマロ! でもなんか違う気もする、あーぜんぜん分からない。

「別に私も音楽に興味ないし、車なんてなおさらだって。でもね、こう見えてちゃんと時間つかってるんだよ。新聞だって主要三紙は目を通してるし、G8の首相の名前くらいはみんな言えるっつーの」

私は目の前にいる女の子が、ただ生まれ持った美しさだけで生きているのではないことをあらためて知った。家に帰ってから調べて分かったけれど、彼女が勤めるラッシュというクラブは六本木のなかでも屈指の高級クラブだった。そこで生き残っていくには、相応の努力が必要なのだ。

「でもいまサワに必要なのは、雑学でも会話術でもなくて綺麗になることなんだろ? 真剣にやるなら手伝っていい。マジじゃないならいますぐ帰れ」

「来週まで、ですよね……」

「そう。とりあえず、いまより痩せてきて。そしたらその後のことを教えてあげる」

ほんとうなら昌弘さんと食事でもしている時間、私は走った。

次の日も、その次の日も。

これはテストだ。私の決意を確かめるテストだ。もしテストにパスしたら? それでも私は走りつづける。ただ、綺麗になるために。努力する、不様(ぶざま)なやり方で。もし私が綺麗になれるのなら、それを試さないまま、このまま死ねるか。

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